真生主義の運動は、大正10年に、増上寺山内の学寮である多聞室(院)住職であった土屋観道が日魯漁業社長堤清六の寄贈によって、神田駿河台に、如来中心主義の看板を掲げた説教所「光明会館」(光明教壇)を開設したことに始まる。
土屋は明治45年に椎尾弁匡の導きによって宗教大学(現・大正大学)に編入し、中島観しゅう(王秀)の弟子となって得度を受け、翌年より中島の仮偶する鑑蓮社に移って修行に入った。鑑運社は常念仏の寺として知られ、住職であった大谷文祐と中島は、毎日朝8時から午後4時まで、在家を中心として常念仏を行い、毎月18日と25日には念仏のほかに説教を行っていた。
こうした宗教的環境に恵まれて、土屋の念仏体験は深まっていくが、土屋の信仰確立に影響を与えたもう1人の人物に、光明主義を説いた山崎弁栄がいた。山崎弁栄との出会いは、大正4年の正月であり、土屋が29歳のときであった。その年の6月に山崎弁栄がおもむいた越後寺院の仏教講習会に随行し、翌5年には困窮していた山崎を中島のゆるしを受けて、増上寺山内の多聞室に迎えて起居をともにした。山崎はその年から大正9年12月の遷化まで多聞室に籍を置いていた。同7年には中島も多聞室に入って、「聖者の家」の表札を掲げて念仏会を開き、また同年より知恩院で別時念仏会を開催している。こうして土屋はタイプの異なる二人の念仏者に師事した。中島からは伝統的な信仰と念仏を、そして山崎からは浄土教信仰の現実的意義にささえられた念仏である光明主義を学んだ。
真生主義の提唱
土屋が「光明会館」を開設して伝道を開始したのは、山崎が柏崎極楽寺で入寂した翌年の大正10年である。当初は山崎の運動を継承するものであったが、間もなく真生主義を提唱して独自の活動を始めた。光明会館を開設した当初は、「若き集まり」と題して自由倶楽部を設け、一般の人々の自由聴講を行った。同時に、土屋は自らの宗教思想の体系をはかり、それを図式化した大宝曼陀羅を完成して、真生主義の運動理念とした。翌11年1月に機関誌『真生』を発刊して真生主義運動の拡大につとめると共に、全国に伝道行脚を始め、専修念仏会、修養会、講演会を行った。同14年10月に真生主義の組織化をはかり、真生同盟の結成を計画して各地に伝道を続けた。翌15年に真生同盟大阪支部が結成され、その綱領規約がつくられ、支部機関誌として『光明』が発刊された。同年11月には『信条の綱領』が発表されて、真生同盟の基本的な運動方針が定められた。昭和8年には、国内では東京を始めに、23力所の同盟支部が、海外では朝鮮の仁川に支部が設けられた。同16年に真生同盟本部道場が増上寺山内観智院に設けられた。昭和44年2月に土屋は82歳で正念往生した。
土屋観道の如来中心主義
土屋の如来中心主義の理念は、念仏の実践にあらわされている。日課念仏と共に、別時念仏がすすめられた。信州唐沢山阿彌陀寺で初めて一週間の別時念仏会を行ったのは、大正5年、土屋の29歳の時であった。真生主義運動を開始してよりのちは、同盟の人びとも集まって正味1週間、前後をあわせて9日間(戦後は5日間)の別時念仏会が続けられた。機関紙『真生』は大正11年に創刊され、現在まで264号(毎月1回)を発行している。(平成11年7月現在 367号)
土屋は、「法然上人の宗教と真生」のなかで、
私達の運動を真生といいます。真に生きるとは、仏子の自覚にたって真実の道に生きるの謂いであります。浄土に往生するというのも畢竟この真生のことであります。何故に私達は往生といわず真生というのかと申しますと、それは今日では往生とは普通には「くたばる」事と思っているからです。(中略)かく往生といえば余りにも誤解がおおいので、私達は阿弥陀仏の本願によって解脱し、生き甲斐のある人生を送ることを真生と名付けたのです。法然上人の信仰はあくまでこの真生の道を説かれたので、いわば私達の真生運動は法然上人の宗教を現代に徹底させんがための運動であります
と述べている。
この文によれば、真生主義運動は、法然上人の教えを正しく現代に受け継ぐことであった。つまり「従来の浄土教は未来教に立ち、仏の本願は息が切れてから浄土へ往生さしく(ママ)呉れる所にあるように考え、浄土は死後でなくては往く事が出来ぬ所である。そして此の世は闇の世、苦しみの世界であると思っていた。これは自分の目が曇っていたためで、1歩進んで眼さえ開けば、光明はどこにもここにも充ち満ちて居たのである。現実の世界でそのまま助かる道は眼前に展けている。(中略)如来の光は信仰のない人にも、ある人にも等しく照りそそいでいる。すなわち一切衆生が仏の恵みに浴しているのである」と、来世に重心を置くのではなく、現世つまりこの世で如来の光明の裡に摂取されていることを述べている。その信条は真生同盟の経典ともいうべき『真生禮拝儀」をみれば光明会とほぼ同様であって、如来中心主義に貫かれている。そしてそれは同経典の巻頭に掲げられた『信条の網領』に明確に示されている。