はじまり
観智院は戦国時代末期から続くお寺です。
現在は芝公園にありますが、武蔵国箕田郷で開祖徹公上人によって開かれました。
名前はまだ観智院ではなく「誠諦庵」といいました。
増上寺
増上寺もこの頃はまだ、現在ある芝ではなく武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区平河町付近)にありました。
増上寺と観智院
江戸に入り幕府を開いた徳川家康は念仏信者であり、増上寺の住職である源誉存応上人とご縁が生まれました。
増上寺は徳川家の菩提寺となり、芝の地に移ることになりました。
増上寺が芝に移った際、その時の誠諦庵(現:観智院)の庵主である吟察上人が、増上寺の源誉存応上人に深く帰依(深く尊敬・信奉)して、誠諦庵は増上寺の山内(境内)に移り、子院となりました。
山内寺院
増上寺には多くの山内寺院がありました。
増上寺は1.徳川家の菩提寺 2.僧侶養成 3.浄土宗の行政庁の役割をもっていました。
山内寺院は大きく分けて、塔頭(子院)・別当・学寮・別院のグループに分かれます。
観智院はこの中では塔頭寺院でした。
塔頭(たっちゅう と読みます)は増上寺の儀式を担当する寺院は30ほどありました。
特に、各月担当の12と当時の暦に存在した閏月を加えて13の寺院が月番で法要儀式を担当していました。
観智院もこのグループに入っていました。
別当(べっとう と読みます)は、増上寺の歴代のご住職の菩提寺であったり、徳川家の方々の御霊屋をお守りする役についていました。
学寮 増上寺は関東十八檀林の筆頭として最盛期で3000人程のお坊さんが、全国から勉強に来ていました(今で言う大学みたいな所です)。
その全国から来たお坊さんの住まいとして学寮がありました。
別院は念仏道場や住職の隠居所などの機能をもっていました。
普光院、そして観智院
やがて増上寺は家康の手厚いサポートを受け勅願所(天皇の勅願で国家鎮護などを祈願した場所)となりました。
それに伴って住職の源誉存応上人は、都である京都で天皇に「普光観智国師」の号を贈られます。
やがて普光観智国師(源誉存応上人)は誠諦庵に隠棲したことから、誠諦庵の名前は「普光院」そして「観智院」に名前を改めました。
観智国師
観智国師は源誉存応といい、天文13年(1544)に武蔵国に生まれ、元和6年(1620)に増上寺において77才の生涯を終えた。
増上寺住職となったのは天正12年(1584)で、慶長4年(1599)には後陽成天皇から紫衣の勅許を得たほか、同15年7月には家康の斡旋により国師号を授けられ、この以後、観智国師とよばれた。浄土宗としては異例の厚遇であり、この頃から増上寺は京都の本山知恩院と相並ぶ寺院として重んぜられるようになった。また、この間、慶長10年から17年にかけて、増上寺三門、本堂、経蔵などの堂宇の造営に努め、家康から寺領千石の寄付や、大蔵経3部の寄贈をうけ、徳川家菩提寺である増上寺を、政治的にも経済的にも確固たるものにした功績者である。
(安蓮社内・昭和55年11月15日 東京都港区教育委員会)
諸大名との関わり
徳川家の菩提寺だった増上寺では、徳川家の法要行事が行われていました。
参列する諸大名は、観智院などの塔頭寺院を休憩所・宿坊として使っていました。
観智院は田安家、松平家、忠臣蔵で有名な浅野家と関わりがありました。
明治時代
徳川の時代は終わり明治になると日本は近代化へと舵を切ります。
明治政府は国家神道を推し進め、神仏分離/廃仏毀釈が行われ、増上寺は家康を神として祀った東照宮と分離をすることになってしまいます。
山内寺院は檀家もなく、徳川家や大名の後ろ盾を失い、解体することになる寺院もありました。
観智院も住職が無住の時や、他のお寺と兼務という苦難の時代になりました。
近現代
時代は昭和の混乱の世になりました。
第二次世界大戦に向かう不穏な時代にあって、佐賀のお寺と兼務をしていた当時の観智院住職は、佐賀に帰ることになります。
そこで、同郷で同じ増上寺の山内寺院である多聞室の住職 土屋観道上人に観智院を譲り、昭和16年観道上人が第21世住職となります。
第二次世界大戦が始まると東京は空襲を受け、観智院も戦災で焼失しました。
観道上人は観智院の戦災復興、再度の修復、また全面改築とご苦労されました。
それからのち、観智院は真生運動の本部、また月例の念仏会・写経会、また秋の全国大会の道場として今日に至りました。